CONCEPT– 会の紹介 –

横浜蝸牛山岳会の沿革

1939年(昭和14年)6月、横浜市の下町に在住する勤労者や小商店主などまさに「大衆」に属する人たちによって横浜蝸牛山岳会は結成されました。
丹沢をホームベースに元祖丹沢スタイルのような顔をして闊歩するようになり、幅をきかせていたといいます。しかしこうしたスタイルが良くも悪しくも山岳会の性格を決定づけることとなりました。良く言えば柔軟、悪く言えばルーズという性格が、かえって会の中に自由な空気を醸成し、「気のおけない仲間たち」を形成したのです。誕生から80年以上も歴史を紡いでこられた一つの要因はこんなところにあります。
ちなみに山岳会の名前の由来は諸説ありますが、かたつむりは登ったら最後、上へは行くけど下には降りない、つまり登るって言う意味でつけたというのが有力です。マークの葉っぱはエーデルワイスです。
創立会員を中心として当初から丹沢の尾根や沢、谷川岳の登攀など活発な活動を続けましたが、太平洋戦争に突入。戦局の拡大に伴い会員も戦地に招集され、終戦時にまで6名もの会員が戦死しています。

戦争による廃墟の中から1年後の1946年には復活記念と銘打って丹沢の塔ノ岳集中を行っています。それ以降、順調に登山活動を拡大し、正月のスキー合宿をはじめ、丹沢や上越を中心に実績を残し、蝸牛山岳会は結成当初からの理念である「幅広くかつ高度な登山の道」を進みました。海外アルプスからヒマラヤへの強い憧憬とともに、1952年には本来の目標である冬山合宿の第一歩を八ヶ岳にて実践しました。

もはや戦後ではないと言われた昭和30年代に入ると登山ブームの中で活発な登山活動が実践されましたが、同時に遭難が多発し、山岳会の活動に暗く重い陰影を落とした時代でもありました。遭難事故を受けリーダー会の設置による企画・統制の強化、山岳会の会則の整備が行われたのもこの頃です。

それ以降、会員数も増大し、登山内容も高度化して、1959年5月の槍ヶ岳集中登山、翌年の夏の穂高合宿では明神東壁中央リンネ、屏風岩中央フェース、滝谷グレポンなど当時の一級ルートを含む前穂東壁、同四峰、滝谷を連日登攀するに至りました。冬には個人山行で谷川岳一ノ倉沢中央稜の冬期第二登(1960年3月)がされています。この情熱は1959年8月に東京雲稜会によって初登攀された一ノ倉沢衝立岩正面壁に向けられましたが、1960年9月18日に正面壁登攀に向かった当会会員の宙吊り事故が発生し、自衛隊のザイル銃撃によって2名の遺体が収容されるという山岳史上消えることのない悲惨な遭難が発生してしまいました。この遭難が横浜蝸牛山岳会の重い歴史として残っていることを、事故から60年以上経た現在も忘れる訳にはいきません。

衝立岩の事故以降、確実に実力を蓄えてきた会員たちは1968年から70年頃にかけて「より困難」を目指す冬期登攀やルート開拓を実践してきました。谷川岳一ノ倉沢南稜、中央稜、一ノ倉尾根、滝沢リッジなどの冬期登攀。さらに衝立岩正面壁右フェース蝸牛ルートの開拓(1969年9月)と同ルートの冬期初登攀(1971年12月)。甲斐駒ヶ岳の赤石沢奥壁左方ルンゼ冬期第三登(1969年12月)、同中央壁の冬期登攀が正月合宿の一環として行われています。
「より困難」という方針によって蓄積された実力は1970年8月の夏合宿として展開。目標の北アルプス硫黄岳前衛峰東壁、北東壁のルート開拓中に3名の会員が墜落死亡という事故が発生。山岳会の活動は低下のやむなきに至るも、亡くなった会員の意志を継ぐべく新鋭会員も加え、硫黄岳前衛峰北東峰蝸牛ル-トが完登(1971年8月)されました。

一方、多くの会員が憧憬として持ち続けた「より高き」においては、1974年横浜山岳協会P29南西壁登山隊に当会より4名の会員が参加、横浜蝸牛山岳会のもう一つのカラーである海外の高所登山の幕開けとなりました。

1970年代後半までは会員が10名以下になるという危機的状況を呈したこともありましたが、1980年代になると若い会員も山岳会に定着し、充実した期間が続いていきます。国内の「より困難」な登山で精神的・技術的に鍛えられ、「より高き」海外の登山で人間的に大きく成長した会員たちが山岳会のバックボーンになっていきました。

現在の横浜蝸牛山岳会

会員数は20人前後(うち女性が2~3名)で推移し、決して大所帯ではありませんが全員現役会員です。
OBは「かたつむり会」というOB会に参加しています。年に一回の安全祈願のザイル祭にてOB会の先輩方と交流を図っています。
「良く言えば柔軟、悪く言えばルーズ」という山岳会の創立当初からの性格は80年以上経った現在でも基本的に変わりません。
山岳会の歴史に暗い影を落としてきた遭難による14名もの死亡事故は、1984年12月の事故以来約40年間発生していません。登山技術の向上、シューズやアックスに見られるようなツールの性能の飛躍的向上が大きな要因として考えられます。あるいはプロテクション技術もすっかり様変わりしました。確保・救助訓練や雪上訓練も毎年山岳会の必須の訓練として取り組まれています。会として山岳コーチの資格の取得を推進し、5人前後の会員が神奈川県山岳連盟が主催する沢登り教室や冬山教室、雪崩や遭難対策などの講習会の講師を務めています。
80年を超える歴史がありますが、古くても新しい気風には気をつけています。

蝸牛のマーク
全背負いを意味するという一説もあり

蝸牛のザックマーク
「牛鍋」「ナベウシ」と読まれることも

登山歴

<横浜蝸牛山岳会独自の主な海外登山>
1978年アラスカ・ハンター峰(北東クーロアール)、1982年アラスカ・マッキンリー(現・デナリ)、1984年ネパール・アイランドピーク、1985年パキスタン・ガッシャブルムⅡ峰、1989年アラスカ・マッキンリー(山岳会50周年記念登山)、1991年(旧)ソビエト・コルジェネフスカヤ、2008年インド・ストックカンリ(70周年)、2019年フランス・シャモニー(80周年)

<会員が参加した主な海外登山>
1974年ネパール・P29、1976年ネパール・マカルーⅡ、1977年パキスタン・K2、1977年インド・ムルキラ、1979年パキスタン・ラトックⅠ峰、1980年パキスタン・ユトマルサール、1981年ネパール・カンチェンジュンガ、1987年中国・チョー・オユー、1987年・中国・ラプチェ・カン、1988年(旧)ソビエト・パミール、1988年・チョモランマ(中国・ネパール・日本三国友好登山隊)、1992インド・ヌン、1993ネパール・ダウラギリⅠ、1997パキスタン・スキルブルム

<その他>
アフリカ・キリマンジャロ、ヨーロッパ・アルプス(モンブラン、マッターホルン、アイガー、メンヒ、グラン・パラティーゾ、グロース・グロックナー、ドロミテ他)アメリカ・ヨセミテなど。